はじめに
日本には様々な怪異・妖怪伝承が存在する。河童や天狗などが代表的なものであるが、新型コロナウイルス感染症の影響を受け、アマビエが注目を集めた。怪異・妖怪伝承の中には、災いや祟りをなす畏怖の対象である怪異・妖怪が存在する一方で、アマビエのように良い影響を与えるものも存在する。
トイレの怪異・妖怪というと、学校の怪談の「トイレの花子さん」が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。学校の怪談に限定した話だが、トイレが関わるものが全体の3割を占めるといい、トイレと怪異・妖怪の類のものの関係の深さがうかがえる。
そこで、学校の怪談というと、近現代寄りの印象を受けるので、それ以前の時代のトイレに関連した怪異・妖怪伝承も含め、情報を収集し整理することを試みた。
トイレ(厠)の民俗学的な立ち位置は?
まず、トイレとは民俗学的な視点からはどのように認知されているのであろうか。
飯島吉晴氏によれば、「厠は家屋における裏側の領域であり、不浄、汚穢、気持ち悪さ、恐ろしさ、暗さ、腐敗といった否定的イメージが伴う制御のきかない部分である。しかし、この否定性を媒介にして、厠は新しいものを創造するという場でもあり、我々が全体性を認識する上で不可欠な部分である。それは、われわれの深層心理とも深く関係している。厠は、人やものが、ある秩序から別の秩序へ移行するのを媒介する、破壊と同時に生成を兼ねた極めて両義的な空間となっており、われわれの内なる異界であるとも言える。」と述べている。
否定的な「負」のイメージが強いように感じるが、新たなものを創造するという一面もあり、完全なる「負」の空間ではないことが分かる。
調査方法
今回は、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベース*1において、要約部にトイレを意味する24語(便所、厠など)を含む伝承をそれぞれ検索し、地域、内容の大まかな分類および整理を試みた。
*1:竹田旦編の『民俗学関係雑誌文献総覧』(国書刊行会、1978)に記載された民俗学雑誌を網羅することに加えて、『日本随筆大成』第1期~第3期(吉川弘文館、1975-78)、民俗編のある都道府県史、柳田國男『妖怪名彙』からも怪異伝承を採集し、35,089件の事例データを保有する
調査結果
調査の結果、「便所」「トイレ」「厠」「雪隠」「閑所」で検索結果が得られた。「便所」を含む怪異・妖怪伝承は194件、「トイレ」を含むものは50件、「厠」を含むものは34件、「雪隠」を含むものは21件、「閑所」を含むものは1件であった。
「便所」を含む怪異・妖怪伝承について
まず地域性に関しては、北海道、秋田県、千葉県、広島県、佐賀県を除く都道府県において伝承が確認できた。内訳としては東北地方が30件、関東地方が20件、中部地方が40件、近畿地方が35件、中国地方が29件、四国地方が16件、沖縄県を含む九州地方が22件、その他・不明の地域が2件であり、大きなばらつきは見られなかった。(図1)
伝承の内容として、多く見られたものが「便所の中で何者かに危害を加えられる」30件、「特定の時間、時期に便所へ行くと不吉な目に合う」22件、「出産関連」16件、「便所で唾を吐くと病む」15件、「咳払いをせずに便所へ入ると病む」10件、「その他何かしらの条件で便所へ入ると病む」という内容が9件見られた。
全体的に危害を加えられる、不吉な目にあう、病むなど「負」のイメージをまとった伝承が多くみられたが、安産や健康、商売繁盛につながるような「正」のイメージをもった伝承も見られた。
「出産関連」の伝承では、「便所をよく掃除する女性は安産するといわれている。」や「便所をきれいにすると良い子が生まれる。」などがあった。また、「便所の神様を拝むと病が治る。」など健康祈願のような伝承も確認できた。
「便所の中で何者かに危害を加えられる」内容の伝承で、一見すると「負」のイメージであるが、下記のように「正」イメージに転ずるような伝承もいくつかみられた。
かっぱが毎晩便所に出て、人の尻をなでていたずらするので、ある晩かっぱの手を掴んで引き抜いてしまった。かっぱは一度逃げたが、後で帰ってきて「手を返してくれ」と言った。「悪いことをしないなら返してやる」と言って手を戻してやった。そのお礼に、それから毎晩魚を届けにきたという。
長野県史 民俗編 中信地方 ことば伝承.長野県史刊行会より
亭主に死に別れた女房が夜中に便所で尻に触る手を切り落とした。翌日、便所から血の跡が点々と残っていた。訪ねてきた老人が手を譲るように頼んだ。その老人は河童であり反省していたので手を返すと、お礼に薬の製法を教えてくれた。
旅と伝説.三元社より
このように、便所で何かしらの被害を被る「負」のイメージから、恩恵を受ける「正」のイメージ転ずる伝承は12件確認できた。
地域によって強い特色が確認できたところは、岡山県と山形県であった。岡山県は確認できた伝承の数が14件と全国で一番多く、すべてが「サス神」「センチ神」「不動様」と呼ばれる便所の神様にまつわる伝承である。山形県も12件と全国で3番目に件数が多く、そのほとんどが「ウブメ」と呼ばれる難産で亡くなった女性の幽霊に関する記述であった。
「トイレ」を含み怪異・妖怪伝承について
「トイレ」を含む伝承は50件確認できたが、内32件は東京都、神奈川県、栃木県と偏りが見られた。
内容に関しても、50件の内46件が「負」のイメージの怪談の内容であり、「正」のイメージを含む伝承はほとんど確認できなかった。(図2)
まとめと考察
「トイレ」を含む怪異・妖怪伝承を近現代のものと考えるのであれば、近現代とそれ以前では伝承の性質が異なることが分かった。「便所」「厠」「雪隠」を含む伝承は「負」と「正」のイメージを持ち合わせているのに対し、近代以降の「トイレ」を含む伝承はいたずらに恐怖を煽る「負」イメージのみの印象を受ける。
この背景として、トイレに関連した怪異・妖怪伝承に限らず文明が発展を遂げるとともに、合理・非合理の尺度も変わっていき、現代人の感性ではリアリティが保てなくなった伝承は次第にすたれていく傾向にある。その流れの中で、1970年代の怪談ブームにより、トイレに関連した怪異・妖怪伝承は「負」のイメージに傾倒したものへ変化を遂げたのではないだろうか。
伝承とは、人々を災いなど危険から遠ざける役割を担っている場合もある。頻繁に氾濫する川に河童の伝承が存在し、人々を守るために近づけないようにしたという話もある。トイレにおける伝承も、「便所で唾を吐くと病む」という内容も裏を返せば、唾を吐かなければ病まないと解釈できる。きれいに使用すれば障らない、ということを暗に意味し、衛生的な利用を促していた可能性も考えられる。
現在では、トイレの清潔な利用をポスター等で啓発しているが、過去においては、その役割を怪異・妖怪伝承が担っていたのかもしれない。