そのほか

西洋での小便器の由来は一体何?

マルタ シチギェウ
マルタ シチギェウ
東京大学大学院 人文社会系研究科 日本学術振興会 特別研究員

2020/08/20

今年2月、日本トイレ研究所主催の第58回の勉強会にお招きいただき、「海外からみた日本のトイレ文化」というタイトルで講義させていただきました。

発表内容は社会学の観点からみた日本のトイレ文化であり、日本人のトイレ習慣の歴史を辿りながら、西洋と日本での人糞肥料の価値の違いを強調しました。講義のあとQ&Aの時間になり、考えさせられる質問をいくつかいただきましたが、一つは今まで考えたこともない内容でした。

し尿が肥料として活躍しなかった西洋で、小便器が作られたのはなぜ?

「日本では大便も小便も肥料として使われていたのですが、両方の用途が異なっていたため、大便と小便をするところが違っていたわけです。そのため、現在日本でみられる小便器があっておかしくないと思いますが、西洋では人糞肥料がそこまで活躍しなかったようなのに、日本と同じく大便器と小便器の区別があります。それはどうしてですか?」

なるほど。大変いい質問で、西洋での小便器の由来を自分なりに調べてみることにしました。

さて、まず、昔は西洋では大便と小便の集める場所は違っていたでしょうか?
ご存知だと思いますが、西洋のトイレの歴史的な例によく古代ローマが取り上げられます。紀元前6世紀からローマには何らかの廃水をテヴェレ川に運ぶ下水システムがあり、その名はクロアカ・マキシマでした。
しかし、初期は雨水を流す役割がメインで、排泄物の処理には使われていなかったのです。クロアカ・マキシマが排泄物も処理するようになったのは紀元前2世紀です。伝説によると、ある百人隊の隊長がローマへの帰りの途中で小便がしたくなり、もう我慢できなくて暗渠管におしっこをしましたが、その暗渠管がローマに上水を運ぶものでした。彼はそれを知らなかったものの、隊長のしたことは通報され、去勢の刑罰に処されました。そして、隊長の不幸とともに、下水システムが改善され、風呂やトイレの汚水も処理する機能が付け加えられたのです。

古代ローマの水洗トイレ

最も評価されている古代ローマのトイレは水洗スタイルです。一般的な公衆トイレはベンチのようなものにいくつかの鍵穴型の開口部の上に座って用を足すものでした。意図的にそう作られたかどうかは確かではありませんが、同時に複数人で利用していたことから社交的な場所になりました。そのようなトイレではローマ人は主に大便を足し、最後にxylospongiumと名付けられたスティックの海綿で便を拭き取っていましたが、面白いことにこれはトイレを使用しているすべての人々によって共有されていました。

しかし、誰もがそのような優れた施設を使っていたというわけではありません。公衆トイレは風呂、要塞、コロッセオなどで発見されていますが、数が割と少ないですし、みながそのような場所に入れたとは考えにくいです。
実は、ほとんどのローマ人はトイレでではなく、街中にあった排泄専用の溝で用を足していたため、ローマの街全体は悪臭がたちこめ、衛生環境は決してよくありませんでした。

Philip Corkeによるハドリアヌスの防壁にある遺跡に基づいたローマ時代のトイレの再現図。彼らが手に握っているxylospongiumに注目。

尿に課税したウェスパシアヌス帝

小便については、古代ローマ人は古代ギリシア人に倣い、おまるを用いていました。パーティーなどの外出の際に用いるポータブルなおまるもありましたが、一般的なものは街中にあったサイズの大きい公衆おまるです。そのおまるがいっぱいになると、尿は捨てられるのではなく、 アンモニアが含まれるので衣服の洗濯や歯磨きに利用される貴重な材料として使われていました。
実は、尿が重宝されるあまり、ウェスパシアヌス帝(在位:紀元69~79年)は尿の取引に課税しました。伝説によると、尿にまで課税することを不快に思った人の中にウェスパシアヌスの息子もおり、父親にそれを咎めました。すると、ウェスパシアヌスは初回の徴税で得られたコインの1枚を息子の鼻先に突き付け、「pecunia non olet」(お金は臭くない)と答えました。

古代からトイレ文化はかなり進化してきましたが、本題である大便と小便をする場所の区別で考えると、産業革命までは(18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業と社会構造の変革)あまり変化がありませんでした。しかし、その時期になると、とうとう小便器の由来にたどり着きます。

排泄物の増加と感染症の流行

まず、背景に都市化があります。工業化とともに、都市での労働力の需要が高まり、農村から都市への大規模な人口移動が生じました。人口が急に増えると、それまで十分であった人々が生活上必要とするあらゆる資源が不足してしまいますが、その中の一つは排泄できる場所でした。当時、ヨーロッパの人々は一般的におまるに用を足し、おまるがいっぱいになったら、中身を溝など決まった場所に捨てていましたが、街の臭さは想像に難しくないでしょう。

言うまでもありませんが、人口の増加=排泄物の増加ですから、すでに臭かった街がさらに臭くなりました。しかし、問題は悪臭だけでなく、そのような悪い衛生管理がコレラを含む感染症の流行につながることでした。ロンドンを例に挙げますが、イギリスの都会では1832年から1866年にかけて4回もコレラの流行がありました。
特に問題になっていたのは排泄物や廃水を川に流す習慣でした。多くの感染症が宿主の糞便から他の感受性宿主へと口腔を介して伝播し得ることを知られていなく、ロンドンの庶民はテムズ川の水を飲んでいました。そこで、1854年にジョン・スノウはコレラは水で運ばれることを発見しましたが、彼が挙げた証拠が非常に面白くて、少し余談として紹介しましょう。

1854年に、ロンドンの中心部にあるブロード・ストリートでコレラが大発生し、10日間に500人の死者を出しました。当時、この大流行は、「瘴気」(miasmata)と呼ばれる空気中の粒子が原因とされていましたが、ジョン・スノウは、細菌に汚染された水が原因であると強調しました。その証拠の一つとして、コレラ患者の発生場所の近くの醸造所で働く労働者は、誰もコレラにかからなかったことを述べました。調べてみると、この労働者達は、毎日の報酬としてビールを与えられたため、近くの井戸から水を飲用していなかったため、感染する機会が少なかったわけです。彼の理論は認められ、テムズ川から引き込んだ水を顧客に供給していたブロード・ストリート・ポンプは使用不能になり、流行は収まったそうです。

「死の診療所」というジョン・スノウの発見を描いた絵(George Pinwellによる)

また、1858年の夏に下水であふれたテムズ川とその支流では猛暑によりバクテリアが繁殖し、悪臭を放ち、その事件は「ロンドンの大悪臭」(Great Stink of London)と呼ばれています。これを機にそれまで公衆衛生を重視していなかった行政に対する批判が高まり、1865年に地下下水道が通されました。似たようなプロセスはヨーロッパ全体でも見られ、ブルジョワジー以上の階級しか所有できなかった便所は19世紀後半から徐々に庶民の地域でも普及し始めました。ヨーロッパのトイレ文化を研究するデイヴィッド・イングリス(2001)によると、第一次世界大戦後は、下水道が通っていない地域に便所がない者でも、トイレがあることが当たり前だと思い、それを期待していたそうです(p.281)。

パリで男性用小便器が登場

上記のように、19世紀のヨーロッパの都会は屎尿に溢れており、悪臭に加え、排泄物と感染症との関係が明らかになり、行政が公衆衛生の改善に力を入れ始めたのです。その一種として公衆スペースでの排尿を減らすために1830年にパリでピソワール(pissoir)という軽量構造の小便器が設置されました。しかし、フランス7月革命の影響でピソワールは解体され、バリケード作りに使われましたが、1834年に再び紹介されてから、準用されるに至りました。そして、パリの事例に習い、他のヨーロッパの都市部でもピソワールが現れ始めました。ちなみに、フランス語ではピソワールのことをよくvespasiennesと呼んでいましたが、それは上記にも話に出た尿にまで課税したウェスパシアヌス帝へのあてつけです。

ここでもう一つの疑問が浮上しますが、公衆衛生の改善なら、なぜ街中に設定されたのは便所ではなく、ピソワールだったのでしょうか?

まず、当時の性役割は、女性は主に家の仕事をし、男性は家を出て工場などで働くものでした。したがって、女性はいつでも住んでいる場所の近くにある公衆トイレを使うことができましたが、街中の男性向けのトイレ施設を増やす必要がありました。 また、一般的に人間が一日に大便と小便する回数を考えると、後者のほうがはるかに多いです。そのため、街にいる男性が衛生的で気楽に排尿できる場所を確保する必要性があったわけです。
そこで、どうせ立ったまま小便する男性向けの小便器なら仕切りなどが要らないと判断され、同じ広さの空間でも設置台数を多くすることができるために、ピソワールの形になったと思われます。

産業革命による都市化、コレラの流行が影響

まとめますと、古代ローマでは大便と小便の用途が違って収集する場所も異なっていた、つまり大便は便所で、小便はおまるに、という習慣はありましたが、それから排泄物の価値がどんどん下がっていき、し尿をちゃんと集める必要性もなく、トイレ施設もなかなか変化しませんでした。しかし、産業革命に伴う都市化の影響により、それまでかなり悪かった衛生環境はさらに悪化し、コレラなどの感染症が広がり、行政のレベルで動かなければならないことになりました。そして、街で働いている男性を対象に衛生的で気楽に排尿できるようにピソワールがパリで設置され、ヨーロッパ中に普及したわけです。それは西洋での小便器ができた理由だと思いますが、私は手元の資料でしか調べられず、詳しい話はさらに複雑であるはずということをご理解のほどお願いします。

ちなみに、日本と西洋での小便の仕方を比較すると、日本では男性も、女性も立小便をしていたのに対し、西洋では男性は立って、女性はしゃがんで済んでいたという違いが目立ちます。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1993)が、男性も、女性も立小便できるにもかかわらず、女性だけがしゃがんでするように教わることが現象的なレベルで女性の社会的な立場を下げるための行為であると主張しました(p.287)。そう考えると、日本の男女同様の立小便は大変面白い問題になりますが、そのテーマはまた別の機会に論じましょう。

参考文献

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Inglis, David. 2001. A sociological history of excretory experience: defecatory manners and toiletry technologies. Lewiston N.Y.: Edwin Mellen Press.

Johnson, Steven. 2006. The Ghost Map: The Story of London’s Most Terrifying Epidemic – and How it Changed Science, Cities and the Modern World. London: Penguin.

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Walsh, Joseph J. 2019. The great fire of Rome: life and death in the ancient city. Baltimore: Johns Hopkins University Press.

マルタ シチギェウ
マルタ シチギェウ
東京大学大学院 人文社会系研究科 日本学術振興会 特別研究員

ポーランドのアダム・ミツキェヴィチ大学 日本研究専攻を卒業したあと、日本に渡り、文部科学省の国費外国人留学生として大阪大学人間科学研究科にて日本トイレ文化を研究し始め、2017年に当大学で博士号を取得した。現在、日本学術振興会の特別研究員として東京大学大学院人文社会研究科に属している。

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