災害時のトイレ

防災トイレフォーラム2023|教訓・東日本大震災、大塩市民センターにおける避難所でのトイレ対応

日本トイレ研究所
日本トイレ研究所
Japan Toilet Labo.

2023/12/15

(本記事は防災トイレフォーラム2023での講演内容から一部抜粋したものです)

 

――突然ですが、今回のテーマは「質の確保」です。

残念ながら、世の中的に「トイレの備え」は水、食料に比べると、意識はまだ全然向いていません。というのも、「トイレ対応って具体的にどうしなきゃいけないの?」と思って調べても、資料が多く残っていないのです。水や食料の話はよく話題に出る一方、出すこと(トイレ)の話はあまり聞く機会がありません。話題に上がらなければ、問題は放置されたまま、なかったことになってしまうのです。

また、備えの必要性というと、量・数の確保に目が向きがちです。量・数は確かに必要ですが、そればかりでは大切なことを見落としてしまうのではないかとも考えています。

そこで東日本大震災の時、避難所の運営をされたに木村喜宥さん(前大塩市民センター所長)、佐々木美香子さん(大塩市民センター事務長)、千葉美智子さん(大塩市民センター事務主任)に「実際はどのような対応が必要なのか」を具体的にお聞きし、「質を確保」について考えたいと思います。

(聞き手:NPO法人日本トイレ研究所代表理事・加藤篤)

 

 

1.大塩市民センターについて
――まず、お三方が居らっしゃった大塩市民センター位置を確認します。次の図は、東日本大震災の時の東松島市周辺の浸水区域図(浸水したエリアを、色分けしたもの)です。下(南)側が海です。赤や、さらに濃い黒くなっているところがより深刻な被害を受けたところです。そんな中、大塩市民センターは地図の上(北)部、内陸に位置しています。下水道区域で、汚水は下水処理場で処理されていました。

 

木村さん:震災の年は「大塩市民センター」という名称になって3年目でした。それまでは公民館でして、その流れを汲んで、地元の方が集まる場所として機能していました。

佐々木さん:例えば、趣味の教室などの習い事が開かれたり、子どもたちが図書室を利用したりと、地域の皆さんが大人から子どもまで気軽に利用できる場所でした。隣接する体育館と合わせて地域の皆様にご利用いただいていました。

 

2.発災3日目、水洗トイレが詰まり、どんどん不衛生に

――発災当日(11日)と翌日(12日)の最も混乱している時、大塩市民センターには約700名の避難者がいたそうです。しかしトイレの数は男性用が大2・小1の3、女性用が9、バリアフリーが2の合計11個。しかも水がちょろちょろとしか出ない上、停電もしていました。そんなトイレを700人で使うなんて、想像もつきません。

佐々木さん:実は、3月11日と12日はセンター内のトイレ使うことができました。しかし、あまりに大人数で利用したため、すぐに詰まりました。バケツで水を汲んで流しましたが、結局また詰まってしまい、流しては詰まってというのを何回も繰り返し、最終的には使えなくなりました。それでもトイレは我慢できません。流れる・流れない関係なく使ってしまいます。トイレに入れないようにロープで閉じましたが、それでも利用する人が後を絶たず、どんどん不衛生になりました。

 

――使用禁止にしても、排泄は待ったなしですから、トイレに行きたい人たちはいますよね?使用禁止にしたら、トイレに行きたい人はどういう行動をとるのでしょうか?

 

木村さん:発災2日目にトイレの使用状態がものすごく悪くなっており、便器に汚物が溜まってタプタプしていました。誰かが使った後、流さないで使用しているのを目にした時もありました。そこで3日目、被災者を9班に分け、交代でトイレ掃除をするようにしました。「汚いトイレを使うのは嫌だ」と誰しもが感じていたと思いますし、それなら自分たちで使うトイレは自分達で掃除するようにしよう!と。掃除をしてもなお、流しては詰まってを繰り返し、「もうダメだ!」となってからはドアにトイレ使用禁止の張り紙をしましたが、剥がされ、張ったロープもあえなく外され、使えないトイレを使用され続けました。

 

――大混乱の中、トイレ掃除を行う班というのはどのようにして分けられたのでしょうか?

 

木村さん:当時の市民センターは研修室やホールなど部屋が分かれていたので、その部屋通りに分けました。毎日お昼に班長会議を開き「自分達で使うんだから、なんとか協力してください」とお願いしました。

 

――大塩市民センターはマンホールトイレが整備されていたようです。震災の時もあったそうです。しかし、場合によっては組み立て方や使い方はもちろん、あることすらわからないということも少なくないと思います。

 

木村さん:マンホールトイレの存在は知っていました。実は震災の1年前、同じ敷地内に体育館が建設されたのですが、同時にマンホールトイレが整備されたのです。震災の約半年前の11月、地域防災の方で集まって使い方の説明も受けていました。正直なところ、その時は「こんなトイレ使う時がくるのだろうか」と現実味が湧かなかったです。

しかし、半年も経たないうちに使うようになるとは夢にも思いませんでした。

話が前後しますが、トイレ環境がものすごく悪化したため、発災3日目(13日)にマンホールトイレ5基を組み立てることにしました。

3.それまで見たこともないマンホールトイレを使うことに

――木村さんはマンホールトイレのことをご存知だったとのことですが、利用される避難者の皆さんは見たこともなかったという人も多かったと思います。見たこともないトイレをいきなり使うことは難しかったのではないですか?

 

佐々木さん:使うのは難しかったです。テントは、一応飛ばないように重しが置かれていましたが、とても不安でした。実は、最初に用を足しに行った時は使うことができませんでした。トイレに行きたい気持ちはあっても、体が拒否したのです。他の避難された方も、いざ使うとなると、かなりの勇気が必要だったと思います。

 

千葉さん:正直、かなりの勇気が必要です。「使用中」をお知らせするものが「ファスナーが閉じていること」しかなく、鍵もないです。とても1人で行く勇気はなかったです。他の職員や子ども達と一緒に行って、トイレの外で待ってもらいました。テントは、風が強い時は飛ばされそうで、足でロープを踏んで抑えながら使っていました。

 

――それでも使えるようになったんですか?

 

佐々木さん:はい。使うために必要なのは「慣れ」と「覚悟」と「開き直り」です。排泄は我慢できませんから。何回か行くうちにできるようになりました。

 

――最後に、被災経験者として伝えたいメッセージをお願いします。

 

千葉さん:トイレは5基ありましたが、最終的に半分はファスナーが壊れました。また、芳香剤や臭い消しも必要だと思います。あと、子どもが使いやすいトイレも必要だと思います。

 

佐々木さん:サニタリーボックスや、利用中の音が漏れないような擬音装置も必要です。夜間は利用中のシルエットが透けてしまうので、対策が必要だと思います。

 

木村さん:当時、避難所からマンホールトイレまで50メートルありました。被災者は健常者だけでなく高齢者や身体障害者もいます。彼らにとって50メートルは非常に遠く不便です。健常者にとっても、暑い日や寒い日、雨の日は利用しづらいと思います。

また、利用後に流す水とポンプが凍って使えなくなってしまった時もあります。細かい点かもしれませんが、当時は困ったことがたくさんありました。

小さなことのように聞こえるかもしれませんが、その改善の積み重ねが安心して使えるトイレにつながると思います

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「トイレ」を通して社会をより良い方向へ変えていくことをコンセプトに活動しているNPOです。トイレから、環境、文化、教育、健康について考え、すべての人が安心しトイレを利用でき、共に暮らせる社会づくりを目指します。

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